汶川大地震(中国四川・2008年5月12日)から15周年・その1


また 今年も 汶川大震災記念日がきました。



最近は トルコでも大地震が起きていますが
2008年5.12の四川汶川大地震(M8.0) は
トルコ地震より規模も大きく 死傷者の数も大。




私は、毎年 この日が来るたびに思い出し
ウエイボに お見舞いカードを出して
中国人の朋友たちにお見舞いの言葉を送ります。




今天5.12汶川地震十五周年,缅怀逝者,致敬重生!
(死者を偲び、再生に敬意を表する) 

大災害の時の中国語の決まり文句です。








2008年5月12日14時28分、
69227人の生々しい命がこの瞬間に亡くなりました。



四川、甘粛、陝西、重慶など他10省も被災が及び
被災面積は約25.2万平方キロ、



死者:69227人
行方不明者:17923人
負傷者:36万余人
被災人口:2943万人、

直接の経済損失は7717.7億7千万元。(15年前の金額)




世界中の 皆さんの心に残ったのは
この震災は 昼間2時台に発生したので
学童が多く犠牲になったことと、2000m~4000mクラスの高山が次々と 山津波で崩れ落ちたことでしょう。




成都から90km(直線で)汶川県・映秀鎮が震源。
異常な被害を受けた地域を赤で囲ってみましたが




島国に住まっっている我々日本人には 中国大陸の広さは想像できませんが・・・




赤枠のところが 大惨事
(成都~映秀90㎞ 映秀~北川190km 成都~臥竜130km 全て直線距離)


400キロ四方というと日本地図で例えるなら 



東京~~~大阪(直線で400キロ)の範囲が 大惨事になりました。


下の赤枠のところ(400キロ四方)が 最も被害が大で 跡形もなくなって 街を再建するのが難しい地域もあります。 


震災後 重建された卧龙熊猫基地は場所が 成都寄りに移動しています。 








膨大な悲惨な記事の中で
今見ても涙が出るのは、当時ネチズンの心を奪った
この記事と写真。後々 世界中でこの記事は流れました。


死亡した長男の遺体を背負って25キロ先の家に帰る男性、何回見ても  涙がこみ上げて来る。。




この人は 鄭林祥さんと言って、背負っているのは長男。
鄭さんの長男は
この地震の震源地 
四川省汶川県映秀の旋口中学校(日本の中学・高校に相当)の
一年生。
(旋口中学校は55人の生徒が犠牲に)



鄭さん一家は、水墨鎮に住んでおり、映秀までは25キロ。この地震で道路は全て寸断
インフラも全て寸断、
地元の学校に通う次男は帰宅しましたが、長男とは連絡が取れない。
(何故か 一人っ子政策の時期に 鄭さんは2人の子持ち)



中国は
中学高校は全寮制なので
このような惨事が起きると 子供の行方を探し出す親御さんの苦労は、計り知れない。




25キロの道を奥さんと歩いて映秀まで行きましたが、長男の学校も周辺全体  下の写真のような状態。



一日目は 再びやむなく25キロを歩いて帰宅。翌日
再び破壊された中学校の瓦礫の下で長男の遺体を見つけ 自分で素手で
掘り出しました。



25キロの帰り道 遺体を背負って歩く鄭さんに 医師も同行している新聞社の取材班が呼び止めて 加療を勧めた。




しかし 鄭さんは 「息子はすでに死んでいますから」と言って立ち去った。



特に 悲惨な被害の 
映秀漩口中学校














「映秀漩口中学の遺構」
漩口中学は、地震前 全校生徒1527名、教師133名、地震で生徒教師併せて55名が死亡。


中学校の真ん中には四川大地震の記念時計があり、この崩れて横たわる時計 は、2時28分を差したまま。



震后数日した漩口中の建物
この地震も4~6クラスの余震が 1ヶ月続いたので
モウモウと土煙リが。。


記念時計




漩口中の跡地



記念館









成都から北の方角 震源映秀からほぼ200㎞(直線で)
に北川と言うところがあります。













四川省・北川羌(チャン)族自治県と言いますが


唯一の高级中学校 
北川中学 は 3000人近い生徒数の3分の1の
生徒教師共に1000人以上が死亡。


全寮制ですから 我が子を探しに来た親御さんたちも 遺体の山で途方に暮れたと聞きました。



ここでも何度も迫りくる余震(北川中)



震前の北川中




残り3分の2の1000人左右は 受傷、や行方不明。






重建された北川中
泥だらけだった山肌も 
奇麗に緑が・・・





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